Hirokoのオランダ便り 1995年6月(リサイタルのパンフレットより)

2024-05-05T11:25:37+09:00

1.オランダという国 皆さんはオランダについてどんなイメージを持っていらっしゃるのでしょうか?チューリップと風車、レンブラントとゴッホ、「アンネの日記」のアンネ・フランク・・・そのオランダという国から奨学金がいただけることになり(これはオランダと日本の文化交流の一環で、だから私と交換に日本の大学で学んでいるオランダ人がいるはずである)、以前から念願のユトレヒト・コンセルヴァトワール(音楽大学)のマリアンネ・ブロック教授のもとで声楽を学ぶチャンスに恵まれたのは昨年のことだ。 私がアムステルダムのスキポール空港に降りたったのは8月も終わりで、日本の暑さと水不足からいうと夢のような、雨の続く秋の気配のする時期だった。かつては1万基もあった風車も今は観光用に900基あまり残っているだけだけれど、風車の国オランダ、つまり風が吹くといったら、まあすごいのである。 雨の日の傘などさそうものなら、壊れることをまず覚悟しておかなければいけない。フード付きジャンバー、この国で暮らす必需品である。風が吹く、つまり土地(Land ラント)が平ら(Neder ネーデル)なのだ。(オランダHollandの別名Nederlandネーデルランドという国名はここから来ている。)坂道がないから自転車がものすごく多い。自転車を持って普通の電車にも地下鉄にも路面電車(トラム)にも乗れるのだ。折りたたみの自転車ではなく、普通の自転車をである。何とも便利な話だ。 2.オランダ式挨拶 「オランダ式挨拶」だが、これにはたいてい少々閉口する。 一般的にオランダ人たちは出会った時と別れる時、握手だけではなく抱き合ったり、右左右と3回頬にキスし合う。マリアンネ先生のレッスンの前後もそうである。例えばこんなこともあった。 火曜日は私の前に、たいていテノールのティルクが来ていた。先生と彼はいつも派手に挨拶をするのだけれど、当然それが私の方にも回って来る。180cm以上もあるオランダ人の男性の顔が私の方に迫って来る。握手はともかく、結局最後まで慣れなかったけれど、だからティルクは私のことをシャイだと思っていた(いる?)らしい。マリアンネ先生が「違うのよ、日本にはこういう習慣がないのよ」と説明すると、「えっ、日本人ってキスしないの?」と驚くことしきり。「じゃあ、どうするの?」というので、ニコッと笑って軽くお辞儀をすると、「ふ~ん」とかなり不審そう。そういえば、しばらくたって「ヒロコはだいぶ挨拶のキスがうまくなった」と言ってくれたけど、でもやっぱりいまいちうまくいかない。日本に帰って来るとそういうことはないからやれやれだけれど、時々淋しく思うこともあるから不思議である。 3.オランダ人の語学力 私のアパートのオーナーのプルイスおじさんに、ある日こんなことを言ったことがあ る。「オランダ人ってすごいですね。オランダ語だけじゃあなくて、英語もドイツ語もフランス語もしゃべれる人がいっぱいいるんだから」(と一応ドイツ語で)。私としたら当然褒め言葉のつもりだったのに、彼はちょっとさびしそうな表情になって「オランダは小さな国だからしかたがない」という。(オランダは九州と同じ広さである。)「私たちはドイツ人が来ればドイツ語でしゃべらなくてはいけないし、フランス人にはフランス語、イギリス人には英語で対応を迫られるからね」という。需要があっての供給らしい。 プルイスおじさんは私にオランダ語を話してほしそうだったけれど、私は6カ月も滞在したというのに、結局オランダ人の語学力に甘えてしまって、挨拶と数字以外はオランダ語を使わずじまいだった。 それに例えば、オランダ語で会話しているところへ私が居合わせると、それがいつの間にかドイツ語に変わっている。誰かが私に気づいてドイツ語で話し始めてくれたのだ。そこからは何事のなかったように、ただドイツ語のスイッチに切り替わる。さらにそこへドイツ語のわからないロシア人のアレクサンダーがやって来ると、すぐに今度は英語に変わる。こんなことは日常茶飯事だった。 4.もう一つの語学力 1月初旬だったと思う。ベートーヴェン通りの明治屋(アムステルダムの日本食糧店) で、干ししいたけや料理用の日本酒などを買い込んで、私は自分のアパートへトラムの電停から足早に歩いていた。するとオランダ人の4・5歳の男の子が向こうから、ちょんちょんちょんと私の方に駆けて来る。何かをオランダ語で言うのだけれどわからないから、英語で「オランダ語、私わからないから、英語かドイツ語で話せる?」と尋ねた。今から考えると、オランダ人と言えど4・5歳の子供が英語かドイツ語が話せるとは思わないけれど、私がオランダ語がわからないことは通じたようで、「今度は日本人?」とオランダ語で質問してきた。(このくらいのオランダ語なら私にもわかった。)“Ja!”(「そうよ」)と言うと、ちょっと考えて照れくさそうに”Na.n.ji?(何時)”・・・・すっすごい日本語、知ってる。私は苦笑して、あわてて腕時計を差し出した。ちょうど6時だった。”Dank u!Daaaag!(ダンキュー!ダァーッハ!)“(「ありがとう!バイバイ!」)とその少年は元気良く駆けて行った。何とも微笑ましく、私はうれしくてしかたがなかった。 私が住んでいたのはアムステルダムの一番南のはずれで、アムステルダムでは一番 安全といわれている地区だった。(この街はヨーロッパ3大危ない都市のひとつで、夜、一人で歩けないところがいっぱいある。)日本企業も最近どんどんオランダに進出していて、この辺りには日本人の家族も住んでいた。あの少年には、日本人の友達がいるのかな。 5.ヒルダおばさん ヒルダにあったのはユトレヒト中央駅のバス停で、私が日本からオランダに着いた3日後だった。最初、私はユトレヒト郊外のビルトホーヘンという街に住んでいて、そこから音楽院までバスで通っていた。うっとうしく雨の降る日の夜9時頃だったと思う。当初トラブル続きで少々参っていた私は、どうも暗い顔をしていたらしい。が、とにかくちょっとしたきっかけで、同じバスを待つ会話が始まった。彼女は今年60歳になる何とも感じのよい、一人暮らしのご婦人だった。結局彼女は私に住所と電話番号をくれて、デ・ビルト通りでバスを降りた。 私はなぜだかもう一度ヒルダに会いたいと思い、10日ぐらいたってヒルダに電話をかけた。そして9月のとある日曜日のお昼すぎ、私は彼女を訪問した。淡いピンクのバラの花束を抱えて。 小ぎれいに片付いている彼女のおうちは何だか珍しい置物や絵がいっぱいあって、尋ねるとそれらは南アフリカのものだという。彼女は25歳まで南アフリカのヨハネスブルグで暮らしたのだそうだ。ネルソン・マンデラさんとアパルトヘイト(これはオランダ語である)という言葉しか知らない私にとって、彼女の話は全く未知の世界で興味深かった。話は尽きることはなく、私はすっかり長居をしてしまい、ふたりで簡単な夕食をとった。そして今思えば、ほとんど毎週のように彼女を尋ねたことになる。彼女にとっては私が初めての日本人だったので余計興味深かったのだと思うけれど、彼女の質問は尽きることがなかった。 2回目に彼女を訪問した時、私は彼女がもう長い間白血病であると聞いて、ほんとに驚いた。なんでもホメオパシー(同種療法)という方法で治療を続けているのだけれど、お医者さん曰くも、病気が進行せず奇跡的に普通の生活ができているということ。その日の彼女の言葉が忘れられない。「友達がよく、あなたは病人なんだからベットに寝ていなくちゃあいけないでしょというのだけれど、私の人生は、病気ではなくて私自身が主人なんだから、できるところまで私が思うように生きていくのよ」と。私は彼女の食前の祈りが好きだ。彼女は敬虔なクリスティアンである。幼くしてお母さんを亡くし、継母とうまくいかなくて大変だったそうだ。その上、40歳ぐらいから白血病になり仕事を辞めなければならず、細々と年金暮らしとなった。それなのに彼女は、なんとすがすがしく明るく生きていることか。彼女曰く、明るいのは本来の自分の性格だからだそうだ。生きることは大変だけれど、なんと素晴らしいのだろうと、彼女と話していると思えてくる。 ヒルダはこの夏、久しぶりにヨハネスブルグに2か月ぐらい滞在するそうだ。双子の弟さんや親戚を訪問するために。私の一緒にと招待されているけれど(飛行機代だけでおいでと言われている)けれど、やっぱりどうも先立つもの(?)が貯まりそうにないので、難しいかもしれない。 (弘子はその後、3年後の1998年にヨハネスブルグを訪問した。ちょうど世界音楽教育学会が南アフリカの首都プレトリアで開催されそれに出席した。) 6.マリアンネ先生に寄せて コロラテューラ・ソプラノ歌手のマリアンネ先生はエネルギーとユーモアセンス溢れ るほんとに温かい魅力的な人だ。レッスンの内容もさることながら、私は先生のすべてに、いつまでの最大の敬意を表すだろう。 私が先生に教わったことは数限りない。「しないでまかせること」「ただ歌うこと」「自分を知ること」「音楽を、人を、愛を感じること」・・・・ 少しだけやっとわかりかけたように思うけれど、まだまだだ。 今日はどこまで歌えるだろう。あんなに熱心に教えて下さったのに、こんな不出来な生徒で申し訳なく思う。 コンサートは聴いて下さる人がいらして初めて成り立つ。今日のひと時を、それぞれの瞬間に、私の今までのそして今の想いを込めたいと思う。 オランダから、ドイツから、スイスから、フランスから、そして今日お越し下さいました皆様方から、父と母から、多くを与えられて、私は大きな喜びでいっぱいの気持ちを、そして感謝のご挨拶を、心から贈りたい。