1月 2017
ピアニストの手の故障~腱鞘炎・ばね指・手根管症候群・ガングリオン
ピアニストの腕・手・指の故障の典型的なものには、極度の肩こりや上腕部・下腕部の痛みと共に、腱鞘炎・ばね指・手根幹症候群、あるいはガングリオンができることなどがあげられるでしょう。 私は、練習方法を見直す中で、これらの症状を軽減できると考えています。 […]
川井弘子の「うまく歌える『からだ』のレッスン」とは
2015年4月に、「うまく歌える『からだ』のつかいかた~ソマティクスから導いた新声楽教本~」を誠信書房から出版しました。お声掛けいただいてから、なんと3年の月日を要していました。歌うことを、わかりやすく、客観的に文章にすることの難しさをまざまざと感じた3年間でした。 歌えるようになるには、「ボディ・マッピング」だけでは足りない、もっと別の要素も加えたいと思っていた私にとっては、絶好のタイミングであり、大きな意味がありました。 […]
9月 2002
Hirokoの 2週間アムステルダム滞在記 2002年9月
おもしろトピック・・・これぞオランダ!? ★「飾り窓地区」(“red light district”)で バッタリ! アムステルダムのかの有名な「飾り窓地区」。日本人にとっては観光名所のひとつ(たぶん一般的には・・)。赤いライトの窓からは美女(とは限らないが?)の微笑みとあやしい誘いが。ここは14世紀から“世界最古の職業”が行われていた歓楽街。今も政府公認の売春地区。「コーヒー・ショップ」では麻薬も買える。(コーヒーを飲む場合は「カフェ」に行くんだよ!) マリアンネ先生と、ちょうどアメリカから先生を訪ねて来ていた義兄フーゴーと3人で、その「飾り窓地区」に出かけることになった。もちろん? フーゴーの強い希望で・・・は・は・は・・・。アムステルダムでも治安のよくない代表的地区。私自身は2回目。以前も男性と共に・・(誰、誰と?・・・まあ、いいじゃない・・・)。逆にいうと、男の人がいないとスリの恰好の獲物になりやすい。 さて、日本人的感覚からいくと、到底理解に苦しむというかショックを受ける、あけっぴろげさ。何でもありますよ、何でも買えますよ。観光客は苦笑いとうらやましさ?のまなざし。オランダ人にはただの通り道、時には真面目に価格!?の交渉。まとまるとカーテンの向こうに消えていく。出て来た時には、満足してニンマリ。(というところにちょうど出くわせて、私は思わずプッと吹き出してしまった。)まあ、こういう場所に先生と一緒に出かけている私も私だろうけど、(先生も先生だ・・・は・は・は・・・)、この感覚はオランダ特有だ。こうして犯罪を防いでいたり、麻薬だって軽い麻薬をオープンにすることで、重症になるのを防ごうという考えだ。かといって、オランダ人がみんなハッシュを吸っているかというと、もちろんそうではない。でもその管理は自己に任されていることには違いないし、「あなたのお好きなように」というオランダのこの寛容な感覚は、日常生活の端々に現れる。他人のことにはあんまりかまわない。日本と一番感覚的に遠いヨーロッパの国でないかと、私は思う。 さて、この「飾り窓地区」でばったり。なんとマルテンさん(私のリサイタルのピアニスト)に会った。ものすごい人ごみの中でよく見分けられたものだが・・。最初私たちの反応は「ああ~~~!マ~ルテン!奥さんには内緒にしておくから大丈夫よ・・!!」が、彼にとっては何ということなく、自分のおうちに帰る単なる通り道とか。な~んだ私が高校の時、美観地区を帰り道にしていたのと同じか。でも美観地区と飾り窓地区・・・・・えらい違い(笑)。彼のアパートはこの地区を通り抜けた所にあり、またオペラ劇場のすぐ近く。アムステルダム中央駅からも近い。 しかし驚くのは、この「飾り窓地区」はいわゆる1階で、2階3階には一般の人が普通に住んでいるということ。これまたオランダかも!? 旧教会の荘厳なカリオンも鳴り響いていれば、麻薬を吸うための芸術的な粋なキセルもいっぱい売られている。 皆様、気をつけて是非一度お出かけ下さい。こういう所もあるのです。 ★レストランのネコと犬 マリアンネ先生とよく行くレストランやバーが4つある。確率的にどうなのか、どのレストランもネコか犬を飼っている。つまりネコや犬がレストランにいる。カウンターを歩いたり、テーブルの下に来たり。衛生上こんなのでいいの?と思っていたが、そのうち慣れてしまってなんともなくなった。 それにお客が犬を連れていることもよくある。ちなみにマリアンネ先生は2匹のチワワを連れて行く。私たちの食事が終わるまで、おとなしくイスの上で眠っている。大きな犬はテーブルの下で、おとなしくしている。犬をレストランに連れて行くことに最初は驚いていたけれど、そのうちずっとおとなしく何時間でも待っている、犬のお行儀よさの方に感心するようになった。現に一度もトラブルに出くわしたことはない。 さてそれはそれとして、犬の糞が道のいたる所にあるのには困りものだ。大きい犬も多いから、・・も大きい。オランダの・・害はもう少し何とかならないものかな。 それにしてもペットを飼うことが日本よりずっと一般化しているし、24時間体制の動物専門の救急車だってある。動物の好きな方は、オランダの方が日本よりずっと住みやすいですね。 ★オランダの道路事情 一見ルーズそうに見えるオランダ人だが、時間には正確だ。バスも時間通りに来る。バスはドイツよりも日本よりもずっと正確。なぜならバスの運転手は時計をこまめにチェックしているし、バスの通る道は渋滞しそうなところでは一般車と別になっている。つまり一般車には通れない車線がある。かといってバスは一般車と同じ車線も走る。これはオランダ特有で、この道路のシステムを誰が考えたのか、偉い!と思う。また住宅街などのあまりスピードを出してほしくない所は、道が所々大きく盛り上がっている。つまり運転する側からいうと、揺れが激しすぎるのでスピードを落さざるを得ないというわけだ。日本もこれを採用したらどうかな。 また、自転車専用の道もある。車道と歩道の間。赤っぽく路面が塗られている車道。これも便利だ。それもそのはず、自転車人口の多さ。しかし、自転車はボロなこと、ボロなこと。捨てられているのかと思ってよ~く見ると、どれにもものすごくごつい鍵がかかっている。運河の手すりや街灯にガチャンとひっかけて。自転車の盗難もまたすごいのだ。カーステレオの盗難以上に。(カーステレオは、アムステルダムの中心部では車から降りるたびにひきぬいて座席の下の見えない所に入れておくのが常識。こうしないと盗まれる危険性が高い。・・・そうなのだ、ステレオが引き抜けるようになっているのか、とこれまた別のところで感心。) ★非統一?通貨ユーロ ユーロは2002年からの欧州の統一通貨だ。オランダは中でも、最初にユーロに移行した国だ。 さてそのユーロ。実は国によって違う。つまり紙幣はどこの国でも同じだが、コインの方は表(裏は同じ裏(表?)はその国の模様だ。オランダでは以前と同じく、ベアトリクス女王の横顔。つまり、コインのユーロは?種類あるというわけだ。(えっと何カ国だったっけ?!) 私としてはオランダの25ギルダー札に慣れたところだったから、20ユーロ札は使いにくかった。25というのは4分の1という感覚で、紙幣もコインも慣れると随分便利だった。50ギルダー札の黄色のひまわりの絵もとても好きだったから、ああ残念。それを見る度に、ゴッホのひまわりの前で雷に打たれたように立ちつくしたのを思い出していたから。 ★オランダのレストラン 外国への長期滞在で大きな問題のひとつは食べ物ではないだろうか。特にこだわりのない私もしかり。オランダでは、中華料理とインドネシア料理がまずは比較的お勧めかも。でも、ご飯はパサパサで、しかもアルミの容器に入ってくるから、最初はなんだか嫌だった。ジャスミンティーの陶器の急須やカップもよくふちがかけているし・・・。でも、ライチからできている中国の白ワインは、日本では見かけたことがないから、楽しみのひとつ。インドネシア料理でご飯にかけて食べるココナッツなどの粉末も、なかなかいいよ。エチオピア料理、トルコ料理・・・もちろんフランス料理、イタリア料理、それぞれの国の人たちが営んでいるレストランは、ドイツと同じジャガイモの国オランダの料理を多彩に彩り、オランダ人の舌を豊かにしているに違いない。しかしこれも、植民地支配をはじめ、多民族を受け入れてきたオランダという国の長い歴史のひとつなのだ。 ★日本人としての自覚 外国に行くと、自分は自分である以上にまず、日本人ということを嫌でも自覚させられる。つまり私は誰か以上に、私はどこから来たかと聞かれる。もちろん名前(名字ではなく名前)を先に言うけど、でもでもだ。また、日本とアメリカの関係が良好だから、アメリカに行ったときは郵便物をはじめ何やかやがとてもスムースだった。ドイツにいる時は、第2次世界大戦で同じ側だったことを改めて感じた。(この若い?!何も知らない私が・・。)必要以上に対日感情がとてもいい。オランダにいるとそれがそうではなくなる。韓国では何も知らない私は、とても大変だった。もっとも、どの韓国人の友達にも、Hirokoは日本人じゃあないみたいと言われて、最初はうれしかったけど、そのうちなんと言っていいかわからなくなった。南アフリカでは白人のお金持ちの友達の家にいたから、最初黒人は皆、犯罪者に見えてしまった。でも街行く人たちの笑顔や白い歯がとてもきれいだった。後で黒人のうちにホームステイしたことのあるドイツ人の友達から全く別の南アフリカの印象を聞いて、ちょっとショックだった。 私にとってはオランダもドイツも同じヨーロッパの国だし、ましてや韓国はお隣りの国だ。だから政府に声を大にして言いたい。戦争責任やら、従軍慰安婦やら・・・とにかく歴史上の日本の国としての過ちはきちんと謝罪してほしい。また歴史の教科書は、日本だけでなく韓国はもちろんのこと、他の国々の人たちと合同で作ったらどうか。欧州の共通の歴史教科書のように。だってあまりの歴史認識の違いに唖然とさせられるから。世界的なある程度の共通認識が必要だし、これからはもっと大切だと思う。でも一方で、それぞれの立場があり、見方が違えば全く逆の事実になってしまうから、それが難しいのもまた理解できる。 私は音楽を学ぶために他の国を訪問したのに、音楽すること以前に日常の生活で、私とは直接関係ない(私が日本人である以上関係はあるけれど、直接どうすることもできないという意味で)多くの過去の出来事に対する疑問を強く感じた。敢えてそうしようと思ったわけではないのにね。これがその国に生活するということかも。 さて、歌うことに戻って、どうして日本の伝統的な声がヨーロッパのそれと全然違うのか、気候も宗教や文化以上に当然大きく影響する。脂っぽい私の肌もヨーロッパではガサガサになりそうになる。(脂っぽくてよかったぁ~・・と妙な感慨・・・は・は・は・・) オランダでは母国語のオランダ語のほかに、独語、英語、仏語など3・4ヶ国語しゃべれるのが一般的。すごいなあ~と思っていたら,小国ゆえにドイツ人が来れば独語で話さなければいけないし、フランス人には仏語で・・ということで、元を正せばあまり喜ばしいことではないらしい。なるほどそうも言えるんだと納得したけれど、やっぱり何ヶ国語も難なく話せる姿を見ていつもやっぱり感心してしまう。でも、ホテルで出会ったチェコからのビジネスマンに、日本語はヨーロッパでもポピュラーになりつつあるんだよと言われて、ちょっとうれしかった。なんでも娘さんが日本語の勉強に日本に留学中だとか。 [...]
5月 1999
演奏者と聴衆 共感する喜び
朝日新聞 岡山版 『人つれづれ』 1999年5月22日より 音 楽 ~ 演奏者と聴衆 共感する喜び ~ ゲーテやアイヒェンドルフの詩に感銘してドイツ歌曲の勉強がしたいと、ドイツのシュトゥットガルト音楽大学に学んだのはもう十年前のこと。 日本でもいい先生に恵まれたけれど、どこか窮屈な感じがして、もっと自分の可能性を試してみたくて留学を選んだ。 […]
12月 1998
気軽に聴ける演奏会を!
気軽に聴ける演奏会を! 「倉敷市にはいい施設が整っており、海外の仲間と演奏会を開き、片引き貼らずに楽しんでもらえる雰囲気づくりに役立ちたい」。 こう話すのは、倉敷市玉島八島、ソプラノ歌手川井弘子さん=写真。 […]
6月 1995
Hirokoのオランダ便り 1995年6月(リサイタルのパンフレットより)
1.オランダという国 皆さんはオランダについてどんなイメージを持っていらっしゃるのでしょうか?チューリップと風車、レンブラントとゴッホ、「アンネの日記」のアンネ・フランク・・・そのオランダという国から奨学金がいただけることになり(これはオランダと日本の文化交流の一環で、だから私と交換に日本の大学で学んでいるオランダ人がいるはずである)、以前から念願のユトレヒト・コンセルヴァトワール(音楽大学)のマリアンネ・ブロック教授のもとで声楽を学ぶチャンスに恵まれたのは昨年のことだ。 私がアムステルダムのスキポール空港に降りたったのは8月も終わりで、日本の暑さと水不足からいうと夢のような、雨の続く秋の気配のする時期だった。かつては1万基もあった風車も今は観光用に900基あまり残っているだけだけれど、風車の国オランダ、つまり風が吹くといったら、まあすごいのである。 雨の日の傘などさそうものなら、壊れることをまず覚悟しておかなければいけない。フード付きジャンバー、この国で暮らす必需品である。風が吹く、つまり土地(Land ラント)が平ら(Neder ネーデル)なのだ。(オランダHollandの別名Nederlandネーデルランドという国名はここから来ている。)坂道がないから自転車がものすごく多い。自転車を持って普通の電車にも地下鉄にも路面電車(トラム)にも乗れるのだ。折りたたみの自転車ではなく、普通の自転車をである。何とも便利な話だ。 2.オランダ式挨拶 「オランダ式挨拶」だが、これにはたいてい少々閉口する。 一般的にオランダ人たちは出会った時と別れる時、握手だけではなく抱き合ったり、右左右と3回頬にキスし合う。マリアンネ先生のレッスンの前後もそうである。例えばこんなこともあった。 火曜日は私の前に、たいていテノールのティルクが来ていた。先生と彼はいつも派手に挨拶をするのだけれど、当然それが私の方にも回って来る。180cm以上もあるオランダ人の男性の顔が私の方に迫って来る。握手はともかく、結局最後まで慣れなかったけれど、だからティルクは私のことをシャイだと思っていた(いる?)らしい。マリアンネ先生が「違うのよ、日本にはこういう習慣がないのよ」と説明すると、「えっ、日本人ってキスしないの?」と驚くことしきり。「じゃあ、どうするの?」というので、ニコッと笑って軽くお辞儀をすると、「ふ~ん」とかなり不審そう。そういえば、しばらくたって「ヒロコはだいぶ挨拶のキスがうまくなった」と言ってくれたけど、でもやっぱりいまいちうまくいかない。日本に帰って来るとそういうことはないからやれやれだけれど、時々淋しく思うこともあるから不思議である。 3.オランダ人の語学力 私のアパートのオーナーのプルイスおじさんに、ある日こんなことを言ったことがあ る。「オランダ人ってすごいですね。オランダ語だけじゃあなくて、英語もドイツ語もフランス語もしゃべれる人がいっぱいいるんだから」(と一応ドイツ語で)。私としたら当然褒め言葉のつもりだったのに、彼はちょっとさびしそうな表情になって「オランダは小さな国だからしかたがない」という。(オランダは九州と同じ広さである。)「私たちはドイツ人が来ればドイツ語でしゃべらなくてはいけないし、フランス人にはフランス語、イギリス人には英語で対応を迫られるからね」という。需要があっての供給らしい。 プルイスおじさんは私にオランダ語を話してほしそうだったけれど、私は6カ月も滞在したというのに、結局オランダ人の語学力に甘えてしまって、挨拶と数字以外はオランダ語を使わずじまいだった。 それに例えば、オランダ語で会話しているところへ私が居合わせると、それがいつの間にかドイツ語に変わっている。誰かが私に気づいてドイツ語で話し始めてくれたのだ。そこからは何事のなかったように、ただドイツ語のスイッチに切り替わる。さらにそこへドイツ語のわからないロシア人のアレクサンダーがやって来ると、すぐに今度は英語に変わる。こんなことは日常茶飯事だった。 4.もう一つの語学力 1月初旬だったと思う。ベートーヴェン通りの明治屋(アムステルダムの日本食糧店) で、干ししいたけや料理用の日本酒などを買い込んで、私は自分のアパートへトラムの電停から足早に歩いていた。するとオランダ人の4・5歳の男の子が向こうから、ちょんちょんちょんと私の方に駆けて来る。何かをオランダ語で言うのだけれどわからないから、英語で「オランダ語、私わからないから、英語かドイツ語で話せる?」と尋ねた。今から考えると、オランダ人と言えど4・5歳の子供が英語かドイツ語が話せるとは思わないけれど、私がオランダ語がわからないことは通じたようで、「今度は日本人?」とオランダ語で質問してきた。(このくらいのオランダ語なら私にもわかった。)“Ja!”(「そうよ」)と言うと、ちょっと考えて照れくさそうに”Na.n.ji?(何時)”・・・・すっすごい日本語、知ってる。私は苦笑して、あわてて腕時計を差し出した。ちょうど6時だった。”Dank u!Daaaag!(ダンキュー!ダァーッハ!)“(「ありがとう!バイバイ!」)とその少年は元気良く駆けて行った。何とも微笑ましく、私はうれしくてしかたがなかった。 私が住んでいたのはアムステルダムの一番南のはずれで、アムステルダムでは一番 安全といわれている地区だった。(この街はヨーロッパ3大危ない都市のひとつで、夜、一人で歩けないところがいっぱいある。)日本企業も最近どんどんオランダに進出していて、この辺りには日本人の家族も住んでいた。あの少年には、日本人の友達がいるのかな。 5.ヒルダおばさん ヒルダにあったのはユトレヒト中央駅のバス停で、私が日本からオランダに着いた3日後だった。最初、私はユトレヒト郊外のビルトホーヘンという街に住んでいて、そこから音楽院までバスで通っていた。うっとうしく雨の降る日の夜9時頃だったと思う。当初トラブル続きで少々参っていた私は、どうも暗い顔をしていたらしい。が、とにかくちょっとしたきっかけで、同じバスを待つ会話が始まった。彼女は今年60歳になる何とも感じのよい、一人暮らしのご婦人だった。結局彼女は私に住所と電話番号をくれて、デ・ビルト通りでバスを降りた。 私はなぜだかもう一度ヒルダに会いたいと思い、10日ぐらいたってヒルダに電話をかけた。そして9月のとある日曜日のお昼すぎ、私は彼女を訪問した。淡いピンクのバラの花束を抱えて。 小ぎれいに片付いている彼女のおうちは何だか珍しい置物や絵がいっぱいあって、尋ねるとそれらは南アフリカのものだという。彼女は25歳まで南アフリカのヨハネスブルグで暮らしたのだそうだ。ネルソン・マンデラさんとアパルトヘイト(これはオランダ語である)という言葉しか知らない私にとって、彼女の話は全く未知の世界で興味深かった。話は尽きることはなく、私はすっかり長居をしてしまい、ふたりで簡単な夕食をとった。そして今思えば、ほとんど毎週のように彼女を尋ねたことになる。彼女にとっては私が初めての日本人だったので余計興味深かったのだと思うけれど、彼女の質問は尽きることがなかった。 2回目に彼女を訪問した時、私は彼女がもう長い間白血病であると聞いて、ほんとに驚いた。なんでもホメオパシー(同種療法)という方法で治療を続けているのだけれど、お医者さん曰くも、病気が進行せず奇跡的に普通の生活ができているということ。その日の彼女の言葉が忘れられない。「友達がよく、あなたは病人なんだからベットに寝ていなくちゃあいけないでしょというのだけれど、私の人生は、病気ではなくて私自身が主人なんだから、できるところまで私が思うように生きていくのよ」と。私は彼女の食前の祈りが好きだ。彼女は敬虔なクリスティアンである。幼くしてお母さんを亡くし、継母とうまくいかなくて大変だったそうだ。その上、40歳ぐらいから白血病になり仕事を辞めなければならず、細々と年金暮らしとなった。それなのに彼女は、なんとすがすがしく明るく生きていることか。彼女曰く、明るいのは本来の自分の性格だからだそうだ。生きることは大変だけれど、なんと素晴らしいのだろうと、彼女と話していると思えてくる。 ヒルダはこの夏、久しぶりにヨハネスブルグに2か月ぐらい滞在するそうだ。双子の弟さんや親戚を訪問するために。私の一緒にと招待されているけれど(飛行機代だけでおいでと言われている)けれど、やっぱりどうも先立つもの(?)が貯まりそうにないので、難しいかもしれない。 (弘子はその後、3年後の1998年にヨハネスブルグを訪問した。ちょうど世界音楽教育学会が南アフリカの首都プレトリアで開催されそれに出席した。) 6.マリアンネ先生に寄せて コロラテューラ・ソプラノ歌手のマリアンネ先生はエネルギーとユーモアセンス溢れ るほんとに温かい魅力的な人だ。レッスンの内容もさることながら、私は先生のすべてに、いつまでの最大の敬意を表すだろう。 [...]